「2002年のケニアの概況」
総選挙で政権が交代
(2003年3月・会報第22号より)

2002年12月、選挙により、ケニアは1963年の独立以来、初めてKANU(ケニア・アフリカ民族同盟)からの政権交代が実現した。

今回の総選挙(大統領・国会議員・地方議員)では、終盤に至るまで、旧与党KANU内での大統領候補指名に社会の注目が集まった。
当時のモイ大統領(注*)は、まず、若手の国会議員から後継大統領を、としてKANU副総裁へ4名抜擢した。そして、この副総裁4名をふくむ数人が大統領への意欲を公言しはじめるなかで、モイ氏は、副総裁のひとりケニヤッタ氏を後継者として指名する。
その他の大統領に意欲を示す議員は、これに反発し、また、党内の一部議員からも党規則に沿った大統領候補選出を求める意見が公表された。これに対して、モイ氏は、ケニヤッタ氏後継の理由を特に説明せずに、「長老の意見には黙って従う」ことを求めて立候補希望者の切り崩しを行なった。

モイ氏にあくまで反発するKANUの党内グループ「虹」(Rainbow Alliance)の議員は離党し、野党連合に合流して「虹の連合」を形成した。そして、統一大統領候補としてキバキ氏を推して総選挙に臨んだ。 その結果は、大統領・国会議員選挙ともに虹の連合の勝利となった。
12月27日の投票、29日の選挙管理委員会による大統領の決定とケニヤッタ氏の敗北宣言、30日の大統領就任式と迅速に政権交代が行なわれた。

この選挙は、大きな混乱も予測されたが、各大統領候補をはじめ、広く社会全般にわたって、平和かつ公正な選挙が繰返し強調された。明確な敗北宣言と迅速な政権交代が行なわれるなど、ケニア社会の成熟度・民主化度を確認することができた。

ちなみに、いったん大統領候補となる意思を公言し、その後、モイ氏に説得されてケニヤッタ氏支持に回った議員は、いずれも出身選挙区で落選。また、KANUの強力な支援を受けた候補者のひとりは、選挙区に短期間で電力線をひき、議員報酬を全てそこでの開発に使うと公約していたが大差で落選した。これらも社会の成熟度のあらわれであろう。

(注*)1978年、初代のケニヤッタ大統領の死去により、副大統領モイが第2代大統領に就任。





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