2006年
[第37号]ケニア人スタッフから「ぼくは農民」との言葉

調整員  橋場 美奈

10月末、突然の雨季の到来。日本の四季のように、徐々に展開する季節の変化ではない。少し前まで、現場は砂ぼこりが舞う乾いた地だったが、今は見渡す限り、草木が青々としている。

そのしばらく前、現地の人々が雨を待ちわびていた時期に、ムイ郡在住のCanDoのケニア人スタッフたちが、「1週間の休暇がほしい」と申し出た。雨季の本格的な農作業に入る前の準備、「シャンバ・ワーク(畑仕事)」のために必要だという。

20代の助手がこの件を出したとき、「畑を持っているの」と何気なく聞いた。

「何を言っているんですか。僕は農民です」と切り返された。その言い方は誇らしげだった。

CanDoで働き始めた昨年、独立した自分の畑を持ち、農作業を始めたらしい。今年、既に植えたのは、メイズ(白トウモロコシ)とカウ・ピース(ササゲ)。その他にも、豆類やクンデと呼ばれる緑の野菜を作る予定だ。これらは自分で食べる。もし収穫量が多くて余るようなら売る。

ケニア人調整員は、畑仕事のほかに、家畜(ヤギ・牛)を飼い、これも収入源。また奥さんが村で雑貨屋を経営している。

CanDoのケニア人スタッフは、毎月一定の収入があり、現地の基準で言えば高給取りだ。でも、生活の糧はCanDoの給与だけでない。村の人たちの暮らしの基盤と同様、分散しているようだ。

一方、ナイロビ在住の人たちはどうだろう。いつも利用するタクシー運転手に聞いた。

「自分では畑仕事はしない。昔、ナイロビ市内に畑を持っていた人も、家を建てて貸した方が金になるので手放した。食べ物もすべて現金で買うから大変」

物価の高いナイロビで、すべて購入するという状況の大変さは、想像に難くない。彼は小売店ではなく、「農民市場」と呼ばれる卸市場で、安価な穀物や野菜を買うことにしているらしい。

しかし畑仕事による自給自足も、収入も、天候しだい。去年は干ばつに見舞われた。今年は逆に降雨量が多く、川が氾濫し、洪水が起こっている。

「このままだと畑がだめになるかもしれない」と助手も心配そうだった。雨の状況については、また、別の機会にお知らせできれば、と思う。

(2006年12月発行 会報第37号「ナイロビ便り」より)


[第36号]4年ぶりのケニア

調整員  橋場 美奈

時間を置いて、再び同じ場所を見てみると、その場にずっと居続けると気がつかない変化を、より鮮明に感じることができるのではないか。

最初にCanDoのインターンとして、ナイロビに着いたのは2000年のお正月だったので、それから早6年半。2年後、短期の調整員として派遣され、今回、4年ぶりに戻ってきたケニアでは、「変わった」という発見が少なからずある。

特に印象を変えたのは、やはり通信産業。携帯電話、ネットカフェの出現。それから、昔はムズング(外国人)御用達だった中・高級レストランや、サリット・センターなどの高級ショッピング・モールに、ケニア人の姿が増えたこと。2000年には、ほとんどいなかったと思う。

今、ケニアはバブル真っ盛りなのではないか。ナイロビの街は建設ラッシュ。中層ビルの建設現場を車窓からよく見かける。新しいいショッピング・モールも、次々と出現。

ケニア人調整員に、どんな変化があると思うか、聞いてみた。「ジュア・カリ(Jua Kali)」の意味が変わったという。「強い日差し」というスワヒリ語で、野外の商いなどのインフォーマル・セクターを表現していた。今は、オフィスを構える、いわゆるベンチャー企業を指すようになってきた。そう世界銀行のレポートにも書かれている、と教えてくれた。特に、建設産業、通信、音楽などのエンターテイメント産業が雇用を創出しているという。
それから、アスレチック・ジムがいたるところにできて、ケニア人が汗を流しているらしい。都会のケニア人は、フライド・ポテトなどジャンクフードばかり食べて、ハイカロリー摂取。その結果としてかかる成人病を気にして、運動に励んでいるとか。

ナイロビだけでなく、ムインギの町も、変わったと思う。まず、夜も明るくて、道が良く見えることに驚き。昔は真っ暗でよく転びそうになった。店の数も格段に増えたような気がする。

村には女性たちの姿が本当に目立つ一方、男性は少ない(以前も女性が多かったのかもしれないが、ナイロビでの仕事が中心だったので、ムインギで浮かぶのは教員と役人の顔ばかり)。好景気は人の流れも活発化させるという印象を受けた。たくましく、なんとか機会をつかもう、生かそうという気運。そのような受け止め方をするのは、3回目の「1か月目」だからだろうか。

(2006年9月発行 会報第36号「ナイロビ便り」より)



[第35号]担当して4回目の会計監査

調整員   藤目 春子

現在ナイロビ事務所では、インターンが経理作業(現金出納や帳簿作成)を担当しています。そこで記録されたお金の動きについて、記録に誤りがないかどうか、また、お金の動きにおかしなことがないかどうかを確認するのが、管理の仕事を担当する私の役目です。日々行なわれるこうした経理・会計業務の総まとめが、年1回実施している監査です。

今年2月も、また監査の時期を迎えました。日々の会計管理作業があっても、監査の準備は大変です。1年間の会計帳簿情報を整理し、伝票(会計証憑)原本を全て確認します。記録に間違いを発見すると、ため息をつきながら修正。数字が全て合い、書類が全て揃ったら、監査準備が終了となります。

終了となる日が見えてきたら、監査を開始できそうな日のあたりをつけて、監査法人へ電話をし、監査の日程を予約します。日程が決まったら、何が何でもそこまでに準備を終えなければなりません。

監査当日、公認会計士が当会の事務所にやってきて、私が準備した書類をひとつずつ確認していきます。一所懸命準備をしても、やはりまだ間違いが残っていたりします。会計士に指摘されると、「いやー!」と叫びながら、修正作業をします。

また、準備中に見つかった間違いや疑問点などについて、ひとつずつ説明して、どのように修正、あるいは対応すればよいのかを指導してもらいます。 

私がCanDoで監査を担当するようになって、今年で4回目。年々慣れていき、今年は1日半で監査が終わりました。

準備した書類を見せ、間違いについての対応相談を最初にしたら、「あらら、僕の仕事をやってくれているんだね」と言われました。そして、「君の提案通りで問題ないから、書類も全て修正して僕にちょうだい」と。指示された作業をしている間に、同時並行で会計士からの矢継ぎ早の質問に答えなくてはなりませんでした。

本番が終わると、私にとって監査は終わったのも同然です。監査法人が作成する監査報告書の確認と、報告書への署名のみなので、のんびり構えて待っているだけ。3月12日、7ページの監査報告書が届きました。永岡代表と一緒に目を通して、間違いがないことを確かめ、ふたりで署名をしました。

5月、この仕事から離れる予定です。今は、どうやったら次の人が少しでも理解しながら作業を進めていけるのか、情報の残し方に頭を悩ませています。


(2006年5月発行 会報第35号「ナイロビ便り」より)


「第34号」2005年のケニア概況 憲法改正案が国民投票で否決され内閣を解散


長期政権だったモイ大統領に代わり、連立政権である国民虹の連合(NARC)政権が2002年末に誕生してから、2005年末で3年が経ちました。

政権交代のなかで議論され、国民が変化を期待していた課題に、解決のめどが立たなかった2004年(2004年のケニア概況参照)。それに対し、2005年はどんな1年だったでしょうか。

まず、課題の一つが憲法改正でした。モイ政権末期には、憲法改正によって総理大臣職をつくり、大統領の権限を縮小することが、当時の野党によって主張されていました。

しかし、野党だったキバキ氏が大統領となります。憲法改正の会議では意見が統一できないうちに、結局、強大な大統領を維持する改正案が作成され、国民投票に問われることになりました。

国民投票は11月21日に無事、実施され、改正案の否決という結果が出ました。その結果を受けて、大統領は全閣僚を解任。12月、新任しました。

大統領の権限を縮小するために憲法を改正するという当初の公約は、実現されませんでした。しかし、政府も国民も、大きな混乱もなくこの結果を受け入れた点では、ケニアの政治的な成熟度を示したと言えます。

キバキ政権の、もうひとつの重要な公約が、汚職追放です。しかし、2004年に、キバキ政権になってからの大臣や高級官僚による汚職の疑いが、国防・治安部門の資機材調達などを中心に次々と出てきました。

2005年はその真相解明と責任追及が続きました。国民からの圧力も高まり、取調べが続けられるなかで、2006年に入って副大統領まで取調べを受ける事態となり、また、2名の大臣の辞職につながっています。

こうした汚職に対する国際社会の反応は厳しく、世界銀行をはじめ多くのドナーが、ケニア政府の汚職を理由に、ケニアへの資金供与を見合わせています。

このような事情を背景に、キバキ政権下で議論されてきた無償医療制度も、国会を通過したにもかかわらず、大統領によって2005年に否決されました。

2003年に政権が取り組んだ無償初等教育は、現在も継続されていますが、社会保障をめぐる状況は厳しさを増す1年でした。


(2006年3月発行 会報第34号「ナイロビ便り」より)